そして母は自殺した。「ダウン症の弟が産まれた③」

人間の体は、科学で解明出来ないところが多く全ては杓子定規に行かないのは、皆さんもご存じだと思います。
特に”心”は自分自身ではどうにもならない事が多い。
うちの場合は、母と私。恐らく父も含めて3人共心を病む事になったのだと思います。

はじめにこちらから読んでみてください。

そして母は自殺した。「ダウン症の弟が産まれた①」
ダウン症の弟が産まれた事により、家族の変化を書きました。今後、一緒に成長していく中で彼の人生にとって何が一番ベストか?悩む毎日です。今回は私が子供だった頃、特殊な環境下で子供を授かった、母の話をします。

・逃げる

病院から帰ると母は寝ていました。

不思議なことに私は”良かった”と思いました。

何故なら、今回の件でどうして放っていたのか?私から病院に連れてって欲しいと言われなかったのか?父からは様々な疑問があったと思います。

勿論、私が気づくよりも早く母の変化に気がついたのかもしてません。

しかし、私は自分を守る事で精一杯で父がいればおとなしい母も父が仕事に行った後、どんな報復が来るか?また暴力を振るわれるのではないか?

とりあえず今夜はゆっくり寝よう。明日の事は考えない事にしよう。
その晩は泥のように眠りました。

翌朝、母は何もなかったかのように起きていました。
昨日までなかった、私の腕にあるギブスにふれもせず。
産まれた時から”そこにあったでしょう”と言わんばかりに…。

そんな状況でも、当時の私にとっては”良かった”と思いました。
ただこの日から、私たちは親子ではなくなりました。
暴力を振る同居人に怯えて暮らす、暴力を振るわれた人。
私から母に対する感情はなくなり、ただ怯えながら息を潜めて暮らす日々が始まりました。
無力な自分を恨みつつ。

何日過ぎたか忘れましたが、父は母を病院に連れて行きました。
後から聞いたのですが、

精神科だそうです。

そこの医師とどのような会話があったか?私には分かりません、しかし本当、母は自分の病気を心の底から認めたくなかったのは、私には分かります。

ある日、居間でテレビを見ていたら、父と母の会話が聞こえました。

父「薬はどうした?」

母「もう治ったから、大丈夫でしょう?もう飲まなくて良い。」

後で知った事ですが、様々なケースがあるでしょうが、多くの人が継続して薬を服用することがないそうですね。勿論、薬を服用することが治す近道なのか私には分かりません。ただ、通院を続ければ光が見えてきたのかな?と今は思います。

子供であれば、半ば強制的に病院へ連れて行くことができるのですが、大人になるとそうは行きません。また切り傷と違って、治って来ているかどうか、目に見えてわかるわけでもない。

「次男はダウン症、自分は精神科通い」きっと認めたくなかったのでしょう。もしかして自分自身に”人間失格”の烙印を押されたと感じたのかも知れません。

きっと彼女の中で抗っていたのかも知れません。

父も悩んだと思います。

その後、暴力を振るわれることは、ありませんでしたが、しかし私と母の間には大きい溝が出来ました。自然と家に帰る足が重くなり「できる限り父のいない状況で一緒にいない方が良い、何も話しかけない方が良い。」その行動が気に入らなかったのか、平日、母と弟の分しか晩ご飯の準備をしない日が続きます。勿論、台所に行って何か準備する事も出来るのですが、そこには「包丁」があります。

「僕の分のご飯は?」

「・・・・。」

沈黙が続くと、言葉にもならない”音”を口からこぼす始末。

ここで私が台所に行ってインスタントラーメンを作る為にお湯を沸かそうとすれば、
そのお湯を掛けられるのかも?

もしネギを切ろうものなら、刺されるかも?皿を投げつけられるかも?蹴られるかも?

あの時のフラッシュバックが蘇ります。

父は平日は外で晩ご飯をすませるタイプ。

もしここで私が何か訴えたら、父がいない間に報復されるのかも?

無力な私にとっては、なんとか無事に1日1日を過ごす事を考えるしかありませんでした。

当時、通っていた学校に給食があって本当に良かったと思います。
あと、自宅の近くにあった精肉店の1個25円のコロッケ。
時々、友達の家で晩御飯を食べることもありました。
他愛のない会話を楽しみながら食事をする経験がなかったので、違和感がありました。
今思うと、私の行動は他の親御さんにはどう映っていたのだろう?
きっと私が帰ってから、友達は質問攻めにあったに違いないだろうし、
今だったら児童相談所に通報されていたのかもしれない。

もしくは「関わるのは面倒だから、見て見ぬふり」をしていたのかもしれない。

いずれにしても、本当に有難かったです。

●助けを求められる場所

阪神タイガースが日本一を決める数ヶ月前に私にとって忘れられない出来事が起きました。

父方の祖父母との同居です。

父が自分の両親に助けを求めていたのです。

当時の行政サービスがどのようになっていたかは分かりません、もし素晴らしいサービスがあったとしても、今ほど情報を取りやすい状況ではなかったでしょう。

恐らくあのまま、誰にも相談しないでいたら?みんなの心が崩壊していたかもしれない。
想像をしたくもありません。

子育てがあるとどう頑張っても一人では何も出来ない。

しかし「助けて!」と言える環境が素晴らしいもの。

『読んでいただきありがとうございました。続きはこちらです。』

IwasakiKentaro

岩崎健太郎です。
元フリーター、元リフォーム会社の雇われ社長。
今は老舗洋菓子屋さんの社長室副室長兼業務部長。
片親でダウン症の弟の将来に悩み、一方自分の子供達の将来にも悩む。
ただやれることはまだまだあるはず。

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雨の日には傘をさそう
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