こんにちは、現在片親でダウン症の弟がいる、元フリーターで現在は2人の娘を育てている。岩崎健太郎と申します。この回はダウン症の弟が産まれた後、家族、家庭がどう変化したか。
子供の時の思い出に、おじさんになった今の考えを混合させて書いて行きます。
是非、読んでみてください。
はじめに
よく「ダウン症は天使」のワードをよく見ます。
また、子育てを解決できる家族の元に神様が授けてくれた子供であるとか、
さらに、メディアでダウン症で仕事をしたり、会話や日常生活に支障がなく、仕事をして社会から孤立しない施策が紹介されています。
しかし、それはいわゆる「陽」の部分、実際は悩みが多いものです。
初めに、自分自身に何かしらの非があったがために、”こんな子”が産まれて来た。
「酒」「タバコ」「食品添加物」こんな事は序の口で普段の生活の中で”感謝”が足りなかった、分け与えなかったとして”神様”に助けを求める人もいるかもしれません。
私自身も子育て真っ最中で、手探りで子供達と付き合っています。
これを想像すると、両親の悩みは計り知れないと思います。
きっと、今までの彼らの子育ては極端なのかもしれませんが
今までの私の経験や、これからの生活をお伝えできればと思います。
母が壊れる
母は、外国で弟を出産しました。
弟を授かった時は、私も子供で、現在では行われている染色体の検査が行われていたかどうかはわかりませんが、恐らく行われていないと思います。
産まれて来るまでは、正直分からなかったそうです。
また当時は、生活拠点の近所に日本人が住んでおらず、普段から世間話をする相手がおらず、ほとんどの時間を家事と父と私の世話をしていたことでしょう。
今思えば決して社交的ではない母。
転勤の当初は比較的、都会に住み、部屋を借りて先輩社員家族との交流が若干ありました。
昔のアルバムに集まってクリスマス会を行っている写真を見たことがあります。
ただそれは束の間で、ほんの数ヶ月で都会暮らしから、田舎とは言わないまでも郊外のベットタウン暮らしになりました。
私たちの住んでいた国は移民の国で特別、大きい差別を受けなかった地域で私は楽しく過ごしていたのですが。
日本の片田舎で生まれ育った、母にとっては地域に馴染む事のハードルが高かったのでしょう。
私は現地校で授業を受けていたのですが、今思うと日本のように『PTA』があり持ち回りで役割を決められ、強制的に役割を決められる事はありませんでした。
現在子育てをしていて学校に通っている中で1、2を争う疎ましい「PTA」の行事が実は新しくコミュニティーに加わった人にとっては意義のある事になりえるのかもしれないと感じることもありました。
勿論、今の「PTA」が子供達や親の為になっているかは、個人的にはわかりません。
ただ、当時の母にとっては家族以外の別の空間があっても損はなかったのかと思います。
父には職場。
私は学校。
しかし母には2人の家族しかいません、外国生活も1年経つと2匹の犬を飼いました。
今となれば、気を紛らわす手段だったのでしょう。
ある日の晩、私が寝床に着くと
リビングの方から
「いつ帰れるの!」
悲痛な母の叫びを何度も聞きました。
田舎者の母は、都会や外国に強い憧れがあったそうです。
今では信じられないでしょうが、白黒テレビに色のついたフィルムを画面を覆って
”カラーテレビ”だと言い張る家庭があった時代の話なので映画の「3丁目の夕日」の世界ですよね。
学生時代は英語の勉強に励み、英語での弁論や英会話のクラブに入って自分なりに努力をしていた為、大きい不安はなかったと聞いています。
ただ実際、外国で生活すると孤独感が大きくなって来たのかもしれません。
週に一回、自宅から約1時間程度のところにあった日本語補修校が唯一の家族以外の日本人との接点だったのかなと思います。
しかし、そこで知り合いを作っていませんでした。
性格なのか、もしかして「ママ友」を作りたくなかったのかもしれません。
変速的に日本語の映画が上映する時がありました、確か毎回2本立てで、三浦友和と山口百恵の主演映画と「男はつらいよシリーズ」
後は日本のテレビ番組を録画してレンタルしていた店もありました。今思うと制作元には了承を得ていないものだったのでしょう、色んな情報を聞いては母の気を紛らわす行事をしていたのだと思います。
今のように、インターネットも普及しておらず、facebookやinstagramもない時代、気軽に実家へ国際電話も気軽には出来ず、手紙のみ。
心に余裕がなくなっている時、海を渡って5年目の辺りに弟を授かりました。
父、母の当時の心境を知ることは出来ませんが、出産に関しては不安はあった筈です。
実際、私も結婚して子供を授かった時、日本の病院で入院出産するときでさえ、無事に出産できるかどうか不安がありました。
外国で出産ともなると、私には想像もつきません。
その状況で経産婦とはいえ、一般的には高齢出産と言える年齢で母は出産を決意しました。
忘れもしない、夏の日、夜中に陣痛が来たのでしょう、夜中父に起こされ車に乗せられて病院に移動しました、私の心の中でと弟ができることを楽しみにしながら、待合室のソファーで寝た記憶があります。
そして、目が覚めると無事に弟が産まれたと父に言われ、赤ちゃんや母に会えるのかと思ったのですが、何か重い空気感を感じました。そこで父は私にこう告げたのです。
「赤ちゃんは無事に産まれたけれど、体が弱く未熟児だから、少しの間お母さんと入院しなければいけないんだ。あとお母さんも体調が悪いから、今日は挨拶しないまま家に帰ろう。」
この日から母の中の何かが、壊れたのでしょう。
『読んでいただきありがとうございました。続きはこちらはです。』