そして母は自殺した。「ダウン症の弟が産まれた②」

前回の続きです。心を蝕むものは本人にしか分かりませんが、母の心は明らかに病んでいきました。
私自身、子供を授かって考えることは、”将来の事”、健康、勉強、お金・・・様々です。
ダウン症である弟の場合、将来を考えるのはとても難しい環境だったと思います。
これは転勤族には共感いただける部分があると思います。

はじめにこちらから読んでみてください。

そして母は自殺した。「ダウン症の弟が産まれた①」
ダウン症の弟が産まれた事により、家族の変化を書きました。今後、一緒に成長していく中で彼の人生にとって何が一番ベストか?悩む毎日です。今回は私が子供だった頃、特殊な環境下で子供を授かった、母の話をします。

●隠す

以前もお伝えしたように母は弟を外国で出産しました。

そこは、所謂先進国で決して悪い医療体制でもなかったと思います。

その国で産まれた弟は、自動的にそこの国民となり基本的に国籍を取得します。

もしかして、ダウン症の子供を持った親子のソーシャルサービスがあったかも知れません。そこで色んな情報を知ることが出来て、同じ境遇の人達と悩みを分かち合えたかも知れません。

でもね。

サラリーマンの父は、辞令が出ればそれに従いまた違う土地に行かなければなりません。

どっぷり、その土地で暮らし、終の住処にすることは考えていませんでした。

また、弟はダウン症だけれども、赤ちゃんの時は他の子とは変わりなく育てられる。

ここに問題があったのだと思います。

産まれた時は可愛い、赤ちゃんなのです。

人は辛い事が起こると、そこから逃げ出す思考を持つと聞いた事があります。それは、人の脳が辛い事を考えすぎると、その人の心が参ってしまうからだとか。

近所に友達も知り合いもいない状況、しかも母国から遠く離れた土地、産まれてきた子供はダウン症。でも可愛い。

自分の世界の中にいれば、その瞬間は幸せなんです。

彼女はその”瞬間”、その”世界”を生きていくことにになります。

私たち家族…父の苦悩を、まだ子供だった私には想像もつきませんでした。

弟が産まれてから約3年目、私たち家族は日本に帰国することになります。

今までは、外国という事もあり、弟の将来を”その国で”どうするかを積極的に行動していなかったと思います、ただ日本に帰ってきたとなると、そうも行きません。やはり就学させて段階をへて社会へ順応しなければなりません。

帰国する前から薄々ですが違和感を感じていました、母の雰囲気が普段と違う。言葉では言い表せないのですが、彼女のまわりの空気が淀んでいるような感じがしました。

今思うと、随分と前から心が参っていたのでしょう。新しい環境に馴染めず、不安の中で出産、そして想像もしなかった我が子。

帰国してからの生活は今までの外国生活とは一変します。

明らかに変わったのが父の勤務時間、時代は丁度「グリコ森永事件」の頃でした。

私が寝ついた後に帰宅して、目覚める前に出勤、長期の出張。勿論、家族の為の行動です。

家の事は”女”の仕事の時代。

勿論、父からそんな言葉を聞いた事はありませんが、比較的時間を自由に使える母に若干の期待があったと思います。

そんな中、事件が起こります。

私への暴力。

彼女の心は既に壊れていたのでしょう、あの時に感じた淀みは、母の中でドンドン濃くなり、厚みを増して膨れ上がり制御が聞かなくなったのかも知れません。

「やめて!」「ごめんなさい!」「折れた!!」私が最後の言葉を叫ぶと、攻撃が止まりました。

また攻撃されるのが怖くて怖くて、逃げるように布団の中に潜り込み、なんとかして元の形になるはずのない腕を抱え、摩りました。

勿論、治るはずもなく「これから、どうなるのか?病院に行かないと治らないけど、父にどう言えばいいのか?母に蹴り折られてって言ったらもっと悪い状況になるのではないか?また母に攻撃されるのではないか?もし治っても、また攻撃されるのでなはいか?でもこのまま腕が繋がらなかったらどうしよう?救急車を呼ぼうか?でも不審に思われたら母が逮捕されるのではないか?そうなると家庭が壊れてしまう。ここは階段で足を踏み外した事にして、母は関与していない事にしよう。私が我慢し”良い子”にしておけば、こんな悲惨な目に合わないはず。」

「そういう事にしよう。」

自分自身では解決出来ない事を、何周も何周も考えたかわかりません、

そうしていると父が帰宅して、自分の不注意で階段で足を踏み外して骨を折ったと伝えた。私の訴えを聞くと父は疲れた体で整形外科の救急外来に連れて行ってくれました。

準備する最中、父は母にどういう事か状況を聞く会話が聞こえました。

母の声を聞くのが恐怖でしかない私にはその話の内容を聞くことは出来ませんでした。

しかし、父の中で何か”理解”し始めたのだと思います。

病院について担当の医者に私からの”言い訳”を伝え、その後医者は私を処置室で待機させて、父とその医者が何かしらの会話をしました。

どのような内容か?それは分かりません。

私は処置室でどうにかこの嘘がバレませんようにと願っていました。

今思うと100%間違っている考えだったなと思うのですが、当時は私の中では母を大切な存在だと思っていたのでしょう。

『読んでいただきありがとうございました、続きはこちらです。』

IwasakiKentaro

岩崎健太郎です。
元フリーター、元リフォーム会社の雇われ社長。
今は老舗洋菓子屋さんの社長室副室長兼業務部長。
片親でダウン症の弟の将来に悩み、一方自分の子供達の将来にも悩む。
ただやれることはまだまだあるはず。

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