そして母は自殺した。「ダウン症の弟が産まれた④」

アドバイスを受ける側、アドバイスをする人。自分がその立場になった時、自分自身の口から出てくる言葉が、”正解”だと思って言っている事、ありませんか?
でも実際は答えは1つではなくて、色んな答えがあったり、そもそも正解がない事もある。
今考えても、あの行動は正解だったと思っている。
でも彼女にとっては違っていたのかも?
私は今でも考えることがある。
あの日何が起こったか?弟しか知らない。

はじめにこちらから読んでみてください。

・分岐点

祖父母と暮らし始めてから数ヶ月経った頃、学校から帰ると母は家にいなかった。
父が母を母方の実家に連れて行ったと知りました。
後日、聞いた話ですが母は物凄く抵抗したそうです。
今となっては詳細はわかりませんが結果的に実家に戻ったということは
本人も自分自身が病んでいるという事実を受け止めたからだと思います。

とにかく私には平穏な日々が戻って来ました。

父は母方の実家とも連絡を取り合っていたみたいで、色んな話をしていたのでしょう。
母が重症で、今の自分には手が負えないと考えたのだと思います。

もしかして、あの事件の事もあったのかも知れません。
この時、父は弟をどう育てようとしたのかは分かりません。
まだまだ手探りの状態だったと思います。

でも、手元に置いておくことにした。
きっと産まれた、その瞬間からそうしようと考えていたんだと思う。

一方、向こうの祖父母はショックだったのでしょう。
「育て方を間違えた」とも考えたのかも知れない。

今、自分自身が子育てをする様になって思うのは、子供には子供の人格があり決して、親の思ったようには育たない。

しかし、子供が人生に階段を踏み外したり、上がれなかったりすると「ちゃんと教えられなかった・・・」と思ってしまう、子供が大きくなればなるほど、そう考えてしまいます。

大人になり結婚して子供も出来た。そんな我が娘が「心を病んで」家に戻ってきた。

どう受け止めていたのだろう?

昔は「心を病む」事を「精神分裂症」と言って隔離、ダウン症も「蒙古症」と言って
やはり隔離したそうです。

祖父母も当たり前に昔の人間だからはじめは、その事実を受け入れるのに葛藤があったと思う。

それから数ヶ月後

翌年の夏休みに母方の祖父母の家に泊まりに行くことになりました、
はじめに私だけが一人先陣をきって行き、後日父が弟を連れてくる。
そのような行程の中、私が到着、正直行きたくないと思っていましたが、

心の片隅には

「もしかして」がありました。

もしかして、何か良い方向に向かっているのかも?と期待していました。

しかし・・・何も変わっていませんでした。
私には悪化しているようにも見えました。

今でも、思い出すのは私たちが父の運転する車で帰宅する時に見送りをすることもなく
家の横の細路地を力もなく歩いている姿。

ともかく、母が実家に戻る前から弟は特別支援学校に通い始めました。当時は養護学校と言ってました。社会性を持たせる、ある程度の自立を目的としているところです。ここで私たち家族の弟の今後をどう考えるか?改めて口にすることはないけれど、各々の考えは一致しています。

勿論、この考え方は偏っているだろうし色んな意見があると思います。

私の考えは

彼の中もしくは世の中が劇的な変化が起きない限り、彼が世に出て独立し自分の所帯をもち、他の人とコミニケーションを取りながら、社会的な責任を自分一人で全うすることはない。

一生、子供のままなんだ。

『読んでいただきありがとうございました。続きはこちらです。』

IwasakiKentaro

岩崎健太郎です。
元フリーター、元リフォーム会社の雇われ社長。
今は老舗洋菓子屋さんの社長室副室長兼業務部長。
片親でダウン症の弟の将来に悩み、一方自分の子供達の将来にも悩む。
ただやれることはまだまだあるはず。

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